地橙孫とは

兼崎地橙孫の写真

兼崎地橙孫

  1. 【俳句】河東碧梧桐の高弟として活躍するとともに、『清明の俳人』として気品ある清明句を多く遺している。1万数千句。
  2. 【書家】最後の六朝体書家であった。(中村不折直伝)
  3. 【徳山藩士】家系は代々“徳山藩士”であり、祖父・兼崎橙堂は高島流西洋砲術指南役として有名。 また小川家とは親戚関係にあたり、地橙孫の母は小川官介の長女。石炭液化研究の世界的権威・小川亨理学博士と地橙孫はいとこ同士。
  4. 【誠実な人柄】種田山頭火に救いの手をさしのべるなど、やさしい心の持ち主であった。(家族を大事にし、人間性豊かな人)
  5. 【徳山帰郷】戦後は徳山に帰郷して、舞車に居住。多くの俳人と交流した。
  6. 【顕彰活動】没後50年にあたる平成19年9月3日に、地元有志により「地橙孫顕彰会」が創立された。

兼﨑地橙孫(本名・理蔵)のプロフィール

 地橙孫は、徳山藩士・兼﨑昌司(号・橙堂(とうどう))を祖父にもち、父・茂樹(号・地外(ちがい))、母・トメ(小川官介長女)の長男として、明治23年に生れました。「地橙孫」という俳号は、父と
祖父の号から一字ずつ「地」「橙」をとり、それに「孫」をつけたものです。
 中学時代から句作を始め、明治43年全国巡遊の途にあった河東碧梧桐と下関で出会い、以来師と仰いでいます。熊本五高を経て京都帝国大学法学部を卒業し、大正13年下関にて弁護士を開業、のちに山口県弁護士会会長に就任しました。
 戦後はふるさと徳山に帰郷し舞車に居住、弁護士として活躍する傍ら、県俳句界の指導者として後進の指導にあたりました。人にやさしい真摯な生き方は、多くの人たちの心を惹きつけ、その精神は気品ある「清明句」として開花しました。また、中村不折(ふせつ)直伝の六朝体(りくちょうたい)書家としても活躍し、交友のあった種田山頭火の墓標(防府市護国寺)や山口ザビエル公園碑も書いています。周南市の東川にかかる岐陽橋には、六朝体で地橙孫句が刻まれています。

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