兼﨑地橙孫 第二句碑建立 除幕式
地橙孫顕彰会を応援して下さっている皆様方へ
3月15日(日)、兼﨑地橙孫第二句碑が皆さま方の御協力によって建立され、無事に除幕式を開催できましたことは、私どもにとりまして、大きな喜びでございます。
地橙孫は俳句を生涯の友とし、正岡子規の追及しようとした俳句を純粋文学まで高めんと精進を重ね、最後は定型の清明句に到達しております。
太平洋戦争が終わった翌年の昭和21年に、長く暮らした下関から、ふるさと徳山へ帰郷しました。そして晩年まで、東川を渡った 舞車の高台(現・清水町)にあった自宅“舞車庵 ”で過ごしています。
句碑に刻まれている〝毬つくや岐陽山河の数へ唄〟は、帰郷3年後の昭和24年に詠んだ句です。ふるさとに伝わる数え唄を歌いながら毬つきに興ずる子どもの姿から、平和な昭和の原風景が地橙孫の清明句として蘇っています。
夏には、そばを流れる東川にホタルが乱舞し、又この辺りは、祖父・兼﨑橙堂(徳山藩西洋砲術師範)が幕末維新期に高島秋帆流の砲術を藩兵へ教えた場所で、角場と言われていました。 舞車橋を渡った近くには、石碑「旧藩新角場跡」と周南市教育委員会による説明板が設置されています。地橙孫顕彰会では3年前(平成24年)に、藩政時代に徳山藩士・兼﨑家がありました上御弓丁にレリーフ入りの句碑(第一句碑)を建立いたしました。そして一昨年には、その西側に周南市誕生10周年記念として、徳山発展の礎となった毛利徳山藩の御家中屋敷絵図石碑を建立しました。
この度の第二句碑建立に際しましては、地元の皆様、県内外の地橙孫を愛する皆様や地橙孫顕彰会会員の皆様から賛助金や様々なお力添え、温かい励ましの声をかけていただき、心より感謝申し上げます。
そして、この上御弓丁から東川の通り全体が文学と歴史を象徴する道となり、周南市を代表する文化発信の地、さらには地橙孫の通りとして皆様方から末永く愛していただきますことを祈念いたしましてお礼の御挨拶といたします。
地橙孫第二句碑概要
句 | 毬つくや岐陽山河の数へ唄 |
揮毫者 | 兼﨑地橙孫(六朝(りくちょう)書) |
仕様 | 碑:自然石 寸法:高さ1.45m、幅2m、奥行30cm 重量:1.5ton |
ステンレス製説明板: 日新製鋼株式会社製・ステンレス鋼(SUS304) 寸法;板厚1.5ミリ×縦・横420ミリ (FG3処理) |
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建立場所 | 周南市上御弓丁 |
建立者 | 兼﨑地橙孫顕彰会 |
建立年月日 | 平成27年3月15日 |
※ 碑:自然石
※ ステンレス説明板:日新製鋼株式会社 制作・寄贈
※ 設計・施工:株式会社 熊石
地橙孫第二句碑 説明碑(日新製鋼殿 制作・寄贈)
毬(まり)つくや 岐陽(きよう)山河(さんが)の 数(かぞ)へ(え)唄(うた)
俳人であり書家であった兼(かね)﨑(ざき)地橙(ぢとう)孫(そん)は、太平洋戦争が終わった翌年の昭和二十一年に長く暮らした下関から、ふるさと徳山へ帰郷しました。そして晩年まで、東川を渡った舞車の高台(現・清水町)にあった自宅“舞(まい)車(ぐるま)庵(あん) ”で過ごしています。
地橙孫は徳山をこよなく愛し、二度にわたる空襲の戦災から復興しつつある昭和二十四年に、ふるさと岐陽山河の俳句を詠みました。ふるさとに伝わる数え唄を歌いながら毬つきに興ずる子どもの姿から、平和な昭和の原風景が地橙孫の清明(せいめい)句(く)として蘇(よみがえ)っています。
このあたりは、祖父・兼﨑橙堂(とうどう)(徳山藩西洋砲術師範)が幕末維新期に高島秋帆(しゅうはん)流の砲術を藩兵へ教えた場所で、角場(かくば)と言われていました。舞車橋を渡った近くには、石碑「旧藩新角場跡」と周南市教育委員会による説明板が設置されています。
兼﨑地橙孫顕彰会
平成二十七年三月吉日
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